芳次郎が放った第二のヒット作が「家喜芋」である。発売を前に芳次郎は試作品を、当時内閣総理大臣だった近衛文麿に届けて、批判を乞うた。そして昭和13年2月6日の大阪朝日新聞に出した広告が、「首相近衛さんが、是は結構だとおっしゃった 新発売 家喜芋」 近衛家の家令からの礼状には確かにそう書いてあるのだが、近衛さんもまさか広告に使われるとは思わなかったことだろう。14年1月に第一次近衛内閣が総辞職すると、「近衛さんお好みの美味 家喜芋は 首相が代わっても 風味は変わりません」だから、感服のほかはない。三色の餡が入ったこのじょうよ饅頭は、一個が十銭。当初は大きなものだったそうだ。近衛さんで売りまくった菓子だったが、味が伴わなかったら世間に迎えられるわけはない。
 太平洋戦争後の二條若狭屋は、スタートで遅れている。家族たちは、新円稼ぎにズルチン菓子を作るか、汁粉屋でもと奨めたが、芳次郎は若狭屋の暖簾が泣くといって、首を縦に振らなかったからだ。
 その頃から芳次郎は、甘楽の号で狂歌の世界になじみはじめ、「京からかさ」の会に入る。そして、世の中がやや平静を取り戻すと、甘楽会と名づけて、洒落と趣向を凝らした菓子の頒布会をはじめた。
 第一回が「光琳花見弁当」。道明寺のにぎり飯に有平の梅干、こなしのたくあん、それが金塗の竹の皮に包んである。これを皮切りに、亡くなる寸前の昭和25年9月まで、30回にわたって、自分の持っている技術を尽くしたさまざまな菓子を作ったのだった。
 二條若狭屋は「趣味の菓匠」を稱している。趣味という言葉は誤解されやすい言葉だが、菓子には本来、遊び心のゆとりがなければならないから、それはそれでよいだろう。
 初代芳次郎は総本家から汲み取った京菓子の心を、自分なりに表現して見せた。それが二代勇、三代實に引き継がれて、現在の二條若狭屋の菓子になっている。「不老泉」にしても「家喜芋」にしても、時代に合わせた改良の手が加えられて、現代に生かされているのである。初代の引いた路線の上に、あるいはそれを突き破った新しい分野に、これからもぞくぞくと名菓が現れることだろう。二條若狭屋には、それだけの活力があるはずなのだ。

                                                 
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