店舗の歩み


                           文 ・ 駒 敏郎

二條若狭屋は、正しく言うと「若狭屋茂澄」。二条通小川角に店をもったので「二條の若狭屋」が通り名になって、かなり早くからそれを店名にしてしまった。
初代の藤田芳次郎は明治の末、中京の東洞院蛸薬師にあった江戸時代からの老舗、総本家若狭屋に奉公をして、菓子作りの修行をした。
総本家の主、高浜平兵衛は、明治33年パリ万国博覧会に、大輪の牡丹の工芸菓子を出品して、京菓子の美しさを世界に紹介した人だ。献上の菓子などは、この店に下命されることが多かったので、芳次郎も工芸菓子の技術に習熟した。芳次郎は、皇太子殿下の京都行啓の時、京都市が献上した工芸菓子の製作に携わったことを、明治人らしく生涯名誉としていた。大正14年12月、「不老泉」が発売以来10万個に達したので、芳次郎は得意先に記念の湯呑みを配った。
「不老泉」は独立した芳次郎が最初に当てた菓子だった。当時は、善哉、コーヒー、抹茶、片栗の4種類があって、1箱が五銭。中村不折の文字と、徳力富吉郎の絵とが、かわいい小箱にぴったりとあって、また神坂雪佳の掛紙も時を経た今でも、デザインとしての魅力を失っていない。
芳次郎は、子供の頃、画家を志したことがあったくらいで、菓子や包装、広告などにずば抜けたセンスの冴えを見せている。開業当初、資金面のやりくりに苦しんだ二條若狭屋も、「不老泉」の好評でようやく安定して、芳次郎はいよいよ菓子作りに才能を開花させてゆく。
 菓子店も十年の節目を乗り越えれば、まずまず軌道に乗ったと言える。二條若狭屋はその十周年を昭和4年に迎えた。
 この頃になると知名人の中にも、芳次郎の菓子を愛する人がかなり増えていた。記念に配った風呂敷には、山元春挙の二條離宮図と与謝野晶子の和歌とを使っている。
 6月16日が創業記念日、芳次郎は電話も振替も616番を手に入れていたので、昭和12年6月16日から3日間、午前6時16分から午後6時16分まで、「趣味の売出し」を行い、その広告を四色刷で主要新聞6紙へ一斉に打った。買上げ金額61銭6厘ごとに、記念絵葉書と記念菓子をつけると発表したところ、たちまち売切れで予約者に配達不能。4日後に「大失敗」という文字でお詫びの広告を出したら、またまた注文が殺到して嬉しい悲鳴をあげることになってしまった

芳次郎が放った第二のヒット作が「家喜芋」である。発売を前に芳次郎は、試作品を当時内閣総理大臣だった近衛文麿に届けて、批判を乞うた。そして昭和13年2月6日の大阪朝日新聞に出した広告が「首相近衛さんが、是は結構だとおっしゃった 新発売 家喜芋」 近衛家の家令からの礼状には確かにそう書いてあるのだが、近衛さんもまさか広告に使われるとは思わなかったことだろう。14年1月に第一次近衛内閣が総辞職すると、「近衛さんお好みの美味 家喜芋は 首相が代わっても 風味は変わりません」だから、感服のほかはない。三色の餡が入ったこの上用饅頭は、1個が十銭。当初は大きなものだったそうだ。近衛さんで売りまくった菓子だったが、味が伴わなかったら世間に迎えられるわけはない。
 太平洋戦争後の二條若狭屋は、スタートで遅れている。家族達は、新円稼ぎにズルチン菓子を作るか、汁粉屋でもと奨めたが、芳次郎は若狭屋の暖簾が泣くといって、首を縦に振らなかったからだ。
 その頃から芳次郎は、甘楽の号で狂歌の世界になじみはじめ、「京からかさ」の会に入る。そして世の中がやや平静を取り戻すと、甘楽会と名付けて、洒落と趣向を凝らした菓子の頒布会をはじめた。
 第一回が「光琳花見弁当」。道明寺のにぎり飯に有平の梅干、こなしのたくあん、それが金塗りの竹の皮に包んである。これを皮切りに亡くなる寸前の昭和25年9月まで、30回にわたって、自分の持っている技術をつくした様々な菓子を作ったのだった。
 二條若狭屋は「趣味の菓匠」をうたっている。趣味という言葉は誤解されやすい言葉だが、菓子には本来、遊び心のゆとりがなければならないから、それはそれでよいだろう。
 初代芳次郎は総本家から汲み取った京菓子の心を、自分なりに表現して見せた。それが二代目勇、三代目實に引き継がれて、現在の二條若狭屋の菓子になっている。「不老泉」にしても「家喜芋」にしても、時代に合わせた改良の手が加えられて、現代に生かされるのである。初代の引いた路線の上に、あるいはそれを突き破った新しい分野に、これからもぞくぞくと名菓が現れることだろう。二條若狭屋には、それだけの活力があるはずなのだ。